

目に映るものは皆フィクションである。『「アタック・オブ・ザ・キラートマト」を観ながら』久永実木彦に寄せて
「アタック・オブ・ザ・キラートマト」という映画を見たことがあるだろうか。この作品はAmazon videoに幾円か課金することで、自宅のソファに腰掛けながら、楽しむことができる。この作品は全体として脈絡のないコラージュを繋ぎ合わせたような映画なのだが、とりわけ私がお気に入りなのは、FIAの捜査官であるディクスンがキラートマトに襲われるがひょんな理由から九死に一生を得るシーンだ。ディクスンは、急いた胸を落ち着かすために何気なく窓の外を見ると、自分の車が車中荒らしにあっていることに気がつく。彼は急いで駐車場へ戻って、物取りを捕まえようとする。ここで重要なのは、恐怖のキラートマトから奇跡的に逃れた幸運は、次なる脅威によってかき消されてしまうということだ。「トマトから逃げられたんだから、車上荒らしくらい、まあいっか」とはならない。生きているから、生きている限り、次なる脅威に人間は目まぐるしい。 そのような様態は「アタック・オブ・ザ・キラートマト」内の人間が必死に生きているから露呈するのである。トマトにしてもディクスンにしても、これが一つのフィクションに


家に残したきみへ
家出をした私が家のものに残した手紙です。


燕気分
家出の末、上京してきた明子にある仕事はえり好みできるほどなく、酒と色の香りにばかり囲まれるように働き始めるにつれ、次第に男への好奇心が心の奥底からせり出してきた。それは明子の静かな生活に転調を来した。以前は、仕事上がりの足で銭湯にむかい、短い黒髪に正味三十グラムのコンディショナーにたっぷり使って、さっぱり清潔になってから、本を読んで眠る、ずいぶん夜遅くまでの読書を普段のお楽しみとしていた明子だったが、最近は店で知り合っただれかを家に招いて、相手との未知な関係性の余白を書き込み続けるのであった。 誰かとはむろん、男のことである……。 明け方に気持ちよく気を失って、昼過ぎに言葉の氾濫するベッドで目を覚ました明子の眉をしかめさせるのは、寝不足気味のけだるさと、カーテンもかかっていない窓ガラスから突き刺す紫外線にやられ、顔に薄茶色の斑点を設けたりしないだろうかという憂慮であった。おそらく両方のいらつきのあいだをふりこのように行ったり来たりしているうちに、いつも完全に目を覚ましてしまう。 すでに客人のいなくなった部屋を見渡せば、缶ビールやつまみが散ら




















