top of page

2026/07/13


 メイド服や自撮りを「自意識過剰」としか読めない大人を前にすると、もはやその想像力の乏しさに心の中で細く笑んでしまう。着ぐるみを纏う身体そのものがイベントという場に祝祭性を生み、服装というコードがケアの関係性を成立させることは、個人の承認欲求に還元する読解では見えてこない。


 意外に思われるかもしれないが、放蕩書店のお客さんは女性のほうが比較的多い。私が好き勝手に生きている姿を見ることで、「自分もこう生きていいのだ」という許可を受け取る人も少なくない。「流しのメイド」は私を特別な存在にするための衣装ではなく、他者が自分の生き方を少しだけ肯定しやすくするための実践でもある。だから、それを私の承認欲求だけで説明されてもちょっと困っちゃう。


 本当に人をケアしてくれるのは本である。もっと正確に言えば、読解のうちで人は好き勝手に回復している。メイドは遠ざかってしまえば霧で見えなくなった案内人のランプに過ぎない。それでいい。
もちろん、生身のままケアの関係性を築く本屋もいる。いっぱいいる。すごいと思う。私の場合は普段は人見知りなので、少女性という身体のコードで、自分をどんな失敗してもいいように、足場を低くすることが必要だった。

 私にとって本屋は目的ではなく実践のひとつである。まともな本屋になろうとは考えていない。それでもやっていてよかったなと思うことはいっぱいある。
このままどこか遠くへ行って、本屋ですらメイドですらなくなったとしても、それはそれで構わない。これからも好奇心に身体を許していく。

コメント


bottom of page