2026/04/03houtoubooks5 日前読了時間: 3分 放蕩ちゃんをやめたいんじゃないな、って最近思ってきた。放蕩ちゃんという人格は明るくて優しい人、社交性のある着ぐるみで、普段の私は人見知りだし会話も下手だけれど、着ぐるみを着ることで自分の活動領域が広がっていく感覚があり、それを通して学ぶこともおおい。ただ一方で、アイデンティティの消費の先を目掛けてやっていく、その先に愛情があると信じてやっていくと、人間が見えなくなることがあって、他人の寂しいとか穴を埋めたいという気持ちに飲み込まれそうになる。だから訳がわからなくなる。 私がシヴィライゼーションというゲームに不安定な気持ちのまま縋り付くように課金するように、向こうもその先に何があるかわからず、とにかく縋り付くように私の文章を読んでくれている。それはありがたいことだけれど、相手のケアを背負わなくちゃいけない。私は機械じゃないから傷つくし、傷ついたまま読むこと書くことができなくなったらしんどいから、境界線を守っていかなきゃいけない。自分の経歴を書くなら尚更。私は自分の経歴とむき合いながら、こんなに苦しいことがたくさんあったのにも関わらず、なるべく自分の足で立って生きているのにも関わらず、他人は小さいことでつまづいてちょっとしたことで生きていけなくなる、とても小さな存在に感じた。だからそんな人を慰めたりケアする必要がないんじゃないかと思えてきた。だって弱い人の気持ちはわかっても、怠け者の気持ちはちっともわからないよ。海辺からただ物事を感じるだけのところから、食料豊富で人がたくさんすむ森を抜け、山岳地帯の岩垣にたどり着いた気持ちで、そこに立っているのが自分の分身となる木なのかもしれない。ひたすら孤独で、ひたすら共感されず立っている、おいぼれた葉もつけない木が私であるような気がしてきた。シヴィライゼーションを続けるみたいに、一ターンごと丁寧にコマを動かして放蕩ちゃんを続ける、意味みたいなものはなくて、じゃあなんで自分が続けるかなんてわからなくて、それでも、それに縋っているわけではなくて、本当になんで必要なのかわからないけれど、惰性でもなく続けていくことが暮らしてくことなのだろうか。ただ一つだけ言えるのは、不安から動いてはならないということ。街を作るだけの気持ちで、構築のレンガを積み立てるのが好きな私のただ組み立て上手なだけの私を使うだけの私でいたい。自分と向き合うってしんどいことなんだよ。疲れることなんだよ。それをずっとやり続けることは並の仕事ではないんだよそういうことを今やろうとしている。見つめれば見つめるほど自分ってキモいし、楽にはならないんだよ 私に必要なのは休みじゃなくて、ストイックにやり続けること。ダンベルを持ち上げてやるぞという意気ではなく淡々と続けてやるぞという意気だった。昨日は大移動だった。谷保から藤沢、藤沢から由比ヶ浜。その移動の間世界を見ながら早く文章を読みたいと欲望したのだった。何かをしながら、他のことをすることを待ち望むこと。例えば遊びに行きたくない催しに出かけて、帰りたいと思うことと似ている。いわば落ち着きたいが私にとっての書く読むのフェイズになってきた。小さい頃は妹がよく「絵を描きたい」と言っていて、自分には何もないことに落ち込んでいた。何か違うことをしていて何かしたいと欲望してみたことが小さい頃に一つでもあったら、私はそれになれたかもしれない。電車は行ってしまった。 かなりゆっくりのペースで、こうしたい、ああしたいが29歳になってむくむく膨れ上がっていく時、君の、くうきが、いい時代が来た。
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