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2026/04/04


 朝、夫が部屋から帰る。私も可燃ゴミを捨てに外に出る。
 風呂なし六畳の我が家の玄関を開け急な階段を降りて、手を振って別れようとしたところ、路地の目の前に住んでいる内装屋のおじいさんに声をかけられる。村上さんは私が休みの日に、自転車で地元の定食屋に連れて行ってくれる。むろん年長者に奢ってもらうただ飯である。貧乏人の腹をいっぱいにしてくれる。うまそうな匂いが立ち込めていなければ、三舎も避けるあばらやにずかずか入っていって、一番美味しいものを教えてくれる。たまに発言が意味朦朧としているところもあるが、舌はかなり肥えているとみた。また連れが手洗いに向かっている間に会計を済ますなどさすが東京生まれのシティボーイな振る舞いの名残で、娘を驚かせる。半年前、夫というか私の男の子と鉢合わせた村上さんは、大事な娘でも取られたような複雑な顔をしていたものの、この度は男の子を受け入れちゃんと挨拶までできた。ありがとう。背の高い優しい顔つきの男の子と私がすでに結婚していることを村上さんは知らない。私と夫は現在、別々の家に住んでいるが同居を目指していて、老人はいずれ自分のそばから私が離れて自立することも知らないはずなのだが、私の夫を受け入れたということはこの先の未来、老人自身が存在しようとまいと、じきにそういう別れだけは訪れる可能性を受け入れて、夫に挨拶したのではないか。
 昨晩はあまりの疲労で会話も少なく随分ふたりは眠りこけ、朝10時過ぎの「おそよう」だったから、ゴミ収集車は行ってしまっていた後のことで、やってはいけないと知りながら郵便受けのそばにあるチラシ用のダストボックスに可燃ゴミを突っ込んだ。村上さんはトップバリューのおはぎが美味しいという話をして、私が部屋に戻るため急な階段を上がろうとすると、名残惜しそうに「腹減ってないか」と戦後の子供を見上げるように尋ねた。

 部屋に戻りコーヒーを淹れて朝食を食べながら諸々メールを返し、布団へゆきリール動画を見ているうちに寝てしまった。昨日は職場で大仕事を終えたため、どっと気張りが抜けたのだろう。再び目を覚ますと夕方5時である。
 タイムラインには、私が眠りこけている間に自分の家に戻りシャワーを浴び身支度を整えたであろう夫の、本日も自分の本屋を開店したという旨のツイートが流れてきて、お疲れさま、とハートマークを押す。LINEのほうは雨と風が激しいから気をつけてねという会話で終わっており、こんな天気では商売も回らないだろうと健やかなほどに本屋思考がぼやけた頭によぎる。そういえば今朝、夫が家から出る前に、いくつか取り寄せてもらった書籍代を、店主の面持ちで客の私に請求してきたが、あれは金の収受ではなくどこか「むしる」ようなところがあった。あの盗賊のような顔つきは本日の客足が散々だろうことを見越しての売り上げを担保したかったためではないか。新しい本を欲しいとねだって持ってきてもらったのだから、お金を渡さなければ未払いになる。一親等に万引きされる夫のことを思うと、なんだか可哀想でもの悲しいふうなしょんぼりとした肩が浮かんできて、やたら慈愛深く頭でも撫でてあげたくなったのだが、同時に身内に対しても徴収に予断ない夫のことを思うと、粗暴でチンケな感じの態度にもなった。カノンちゃんが楽しければ自分も楽しいし、自分が楽しくてカノンちゃんも楽しいならなおいい、と夫の言った麻薬のような言葉を思い出し、また猛烈に会いたくなった。
 ン、なら、自分が夫の代わりに店番をすることがやむを得なくあるが、給料の代わりとして本を何冊か棚から引き抜いてしまえば収支は相殺され、私も本を手に入れられて満足だし夫もバイト代として払ったことになるから、いやらしい顔つきはさせないで済むのではないか。はたと思いついた。そうすれば私も幸せだし夫も幸せである。
 外は雨が降りしきっている。本日二杯目のドリップ・コーヒーを入れながら、壁を眺めてぼんやりしているうちに、君が幸せなら自分も幸せで自分も幸せで君が幸せであればなおのこといい、とのおおらかな発言を夫は前後一切もしてないことに思い当たり、私は「ン…?」と可愛げのある感じで首を傾げたのち、何食わぬ顔で淹れたての贅沢をひとくち啜った。
 そういえば、今朝、村上さんとトップバリューのおはぎの話をした。あれは安いうえに案外うまい、と老人は妙に力説していた。舌が肥えているから本当に美味しいのだろう。腹減ってないか、と言われたときは減っていないと答えたが、いま思えば、あれは腹の話ではなかったのかもしれない。

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