家出するきみへ houtoubooks8月4日読了時間: 4分更新日:10月12日 きみがこのページをめくっているのは、あえなく家出に失敗して不幸な家に戻ってきた後なのかもしれない。あるいは家に戻ろうと逡巡している途中なのかもしれない。失敗した家出は、家出とは呼ばず、ちょっと殺気だった旅行にすぎない。「行って帰ってくる」のは物語の基本構造です。君があらゆるフィクションから影響を受け、文化の湯治によって現実の傷を癒してきたならば、古典作品の運動に巻き込まれ、人類史始まって以来の舗装された帰路へ、その軟弱極まりない足を知らず知らずのうちに差し入れてしまったとしても不思議ではない。スターウォーズはお好きか? スターウォーズなんて放射能浴びちゃったら、あれは古典作品を何重にもコーティングして、でろでろにしたものだから、きっとなおさらお家に帰りたくなるだろう。もうこの星には帰らないと固く誓い、家人の顔に汚名を噴発し、立つ後濁したロケットが、まさか、お味噌汁のにおいに誘われクソまみれな家に戻ってしまうことは、非常によくあることなのだ。どうやらその愚かさのいくらかは、こたつのようにぬるく風呂釜のように心地いい才子として、家人とのかすがいになろうとしている古典作品の物語運動のせいらしく、決死のつもりで逃げてきたのに、いつのまにか大手を振るって玄関戸を叩いているという怪現象は、頭の先からつまさきまで「オチをつけたい」という欲求に素直に従ったからなのではないか。そういうベタなカタルシスを家出に求めるとうまくいかない。家出とは壮大なスペクタクルに見えて、オチのない修業である。家出前の生活「ではない」可能性をひたすら推し進める想像力を使う仕事で、旅行気分でふらふらとした、オリエンタルな足取りではとても成しえない。 また「ではない」ものが「である」になり日常となってしまえば、また新しい「ではない」可能性が生まれてくるわけで、半年もすればそれまでの生活と同じ退屈さを今の生活に見出すだろう――と先に言っておこう。 同じ退屈でも、狭き、暗き、物悲しい家人の背中になにがしかの美徳を見出したのなら、きみの修行を手助けするあらゆる親切を悪魔のささやきに変えて、冷たい体のまま家人と体が溶け合うまで共にいればいい。その方がロマンチックですよ。一度、親密性を持った人間から逃げることは、誰かに引き裂かれぬかぎり、未熟な人間のやることだ。成熟した人間であるなら置かれた場所で死になさい。家出のつもりが単なる観光になり下がった余韻を――歩き疲れた足のいじらしい無数のまめを――、しもやけた赤恥のもと、つぶし、ぐるぐる、ぐるぐる生きればいい。家人と顔を合わせないようにするのがやっとな生活に戻ればいい。この家はまた狭くなった。また暗くなった。 ある日、寝入りに<一生のうちは未熟なのだ>と電話のようなくぐもった声が聞こえてくるだろう。誰かはわからない。ただ家人の声ではないということだけがなぜだかしっくりわかる。その声はダースベーダーさながら漆黒鎧に身を包んだ姿の見えない何かから発せられているらしい。きみにほかの世界があることをいっぽんの回路を通してささやいてくる。目覚めたとき、それが昨晩の夢の戯言だと思えるならすべからく穏当なふうに日々過ごしていける。だがそれが確かな声だと決めたなら、声に従いましょう。あほになりましょう。二者関係をかなぐり捨てて、家を捨て、かまわずこの世を歩みつくせるなら、行けるところまで行きましょう。家出はすでにきみの手中にある。きみの行くところは岨道である。アンチ・ロマンである。虹ばかりの地獄である。 重要なのは一回の家出で諦めないことだ。家に帰ってきてしまったら、それはいつか本当にやる家出の予行練習に過ぎないと腹を決めること。巌窟王のように執念深くやること。幾度となく逃亡企図しても家のほうへ目指してしまうのは、単に家出の練習が足りないのである。一度の飛躍には、いつかこの牢のように狭い家から飛び出してやるという数年に及ぶ忍耐が必須である。電話ごしのようなぼやけた声が家出のたびにだんだんと鮮明になっていく。最初は観光になっても構わない。何度も繰り返し実行すれば、いつか遠心力で弧を離れるように家出は離陸する。
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