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蛇撃退法

 似たような四角い部屋にも貴賤がある。今日も今日とて、ネットカフェに泊まる。ハズレの部屋だった。隣の人がずっと電話で喋っていて、薄い壁からすり抜けてきた笑い声が耳に触る。
 イライラしてきたので壁をノックして、訴えてやろうとしたが強めの攻撃になるのでちょっと悩む。ここが関西だったら、吉本新喜劇でオチをつけるときの「ちゃんちゃかちゃっちゃ」のリズムでノックして最後の「ちゃんちゃん」と叩き返してもらうだろう。「うるさいですよ」と「ごめんね」のやり取りを相手に不快感を与えることなく、ユーモラスに完遂できる。だが高円寺に、そういう磁場があるかどうかわからない。
 しばらく悩んでいたが、緊迫感がある日々で睡眠が取れないのはきつい。家出初日から金銭的に厳しくなるまでの数日間、どう動くかによって今後が決まってくる。例えば通常なら1日のターン中に5つマシな未来へコマを動かせても、睡眠不足なら疲れで3つしかコマを動かせない。
 思い切ってネットカフェのフロントへゆき、ピアスだらけの店員に苦情申し立てた。彼はそうですかと言い、薄い唇の端っこを持ち上げた。それっきりだった。これが高円寺か。

 半刻もの時間が立ち去ったとき、隣の人はどこかへ過ぎてった。彼は廊下へ出てからもテレフォンを離さず、馬鹿でかい声で「日本酒を十本、買ってもらう約束したよ」と誰かに話していた。なんのことかわからん。日本酒十本分に相当する何かを彼がやり遂げ、成果をもらおうとしているらしいことだけはわかる。もしかしたら彼はスサノオで、夜通しかけてヤマタノオロチに酒を呑ませ、昏睡させ、殺した後なのかもしれない。それで終電を逃した彼は興奮冷め切らぬまま妻になったクシナダヒメにテレフォンで勇姿を実況している。彼は大蛇撃退をすることで、その稲田の女神と呼ばれる彼女をはじめて妻として迎えいれたのだと『日本書紀』には書いてある。さぞ誇らしく、深夜のネットカフェで声が大きくなってしまったのだろう。
 私はため息をつき、口元だけで笑った。運と他人頼みのこの境遇で、神さまを敵に回さず済んだ。ユーモアの酒で隣人への不快感をちょっと昏睡させる。これが私の蛇撃退法である。

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