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男娼かもしれない/人間観察 vol.1 サイゼリヤ 〜1/31 期間限定公開

更新日:1月5日

 
 『人間観察vol.1 サイゼリヤ』に掲載されている小説、「男娼かもしれない」/宗沢香音 を期間限定で無料公開します。  前年は家出の風俗が強く漂流するがまま活動してまいりましたが、2026年は新天地にて再び活動軸を書く/読むに戻し「構築」のフェイズに今まで外に向いていたエネルギーを凝縮させていきます。今までSNSなどで活動が可視化されていた分、ずいぶん音沙汰のないように見受けられることかと存じますが、あくる朝、前もって建設されていた地下炭鉱が一度に動き出しますように深く深く潜り坑道を作ってまいります。
今の精一杯ですが、よろしければ橋がかりにご高覧くださいませ。

13人のサイゼリヤ好きを集めたアンソロジー
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男娼かもしれない


   前菜:小エビのサラダ

 いつも平坦なくらがりを走ってきたはずが、なにか突起物のようなものに躓いて、ほおり投げられた。向こう脛を打ち付けた痛みにうなだれた私のアタマには、男の面食らった表情がぽっと現れた。それは痛みというモノが元上司のトキ夫という男を想うのに、不可欠だったからなのかもしれない。トキ夫との忌まわしい記憶は、新しい職場に馴染むとともに滞っていた思考が新しい水路を見つけたときのようにずいぶん遠く流されていた。ではいったい今更、私は何に転んだんだろうと障害物を拾い上げてみると、焼けきって炭になった木材であった。ここはどこなのだろう。最寄り駅ちかくの待ち合わせ場所へ向かうために行ったり来たりしている道を間違い探しのように左右を見渡す。自分は考え事をしながら歩いているうちにいつのまにかコンクリートの舗道を外れてしまったらしく、やたら広い廃墟にいて、しりもちをついていた。そこが突然なくなったのはトキ夫と会わなくなるほんの直前のことであったけれども、殺風景な荒れ地ができてからいまに至るまでの二年数ヶ月のあいだ、焼け跡に置かれたままの大きな荷物は片付けられたためしがなかった。
 自分は今朝、職場へ向かうため、この道を通った。ひさしぶりに例のトキ夫と会うためにいったん家に帰ろうと、夕にもう一度、使った。職場用のパンツスタイルでなく、クローゼットで眠っていたスカートを引っ張り出し、しばらく考えあぐねた末にストッキングを履いた(それはもう相手の口車に乗らないための薄くて分厚い一枚であった)。そして待ち合わせ場所の駅前に向かうため、都合三度、この道を過ぎたことになるが、不吉な一帯としてこの瓦礫を慣習的に眼を反らし続けたためであろうか、躓くことなどはなく見逃していた。さいわい死人はなかったものの、自火によって全焼した敷地は、所有者に状態を放棄されたまま、宙ぶらりんの冬眠中で、大きな荷物はどかされず、新しい所有者ができたりする予感もなく、ずっとそのままになっていた。それどころか、誰かが無責任に、後先のことなど考えず、半ば当たり前のように、ゴルフバッグや釣り具、筋トレ器具などこれもまた突起としたものを置いていったようで、あたりはとんでもないゴミ山と化しており、それはまるでさらに自分を躓かせるためのもののように思えて腹立たしくなった。

<いってらっしゃい>
 ホテルのまえで、スーツに塵がないか点検し乱れた白髪まじりを撫ぜながら何気なく放った一言にトキ夫は硬直した。およそこちらの関係では成就のみない安宿での所作が、実際それがどんなふうに朝、交わされるか知っているトキ夫の両目に困惑の表情を炙り出した。くだる坂の途中でも私はしきりに左手を繋ぎ続けようとしたが、力はすかされ握り合わせようとした五本の指はトキ夫のくたびれた大きな手にしつこく這う形になった。さっきまで抱きしめていた汗の感触がこの躰に残っているに耐えきれなくなった。人の出入りする改札に近づいたとき、唇で唇を噛み、ささやき声で太腿のつけ根に手を動かした。終電に走る人々がこちらを振り返る。仮に今が朝で、自分がトキ夫を見送る妻だとしたら、近所じゅう噂になるようなやり方だった。そんなことが、もうひたすらは飢えていないアタマに小っ恥ずかしく、半ば猛烈に浮かび上がったのだった。
 十二歳も年下の娘を本気にさせてしまったのだから、すぐに大人の割り切りをつきつけなければいけない。トキ夫の頭へ、そんな整理を降ろしてしまったのだろう。以前とこれからのキスはなにか決定的に変わってしまった。何が変わってしまったのか分からず、ゆらぎつづける左右の目は、深夜タクシーに乗ってからも間違い探しを続けていた。すくなくとも愛人と時差で閏を出入りするようなスマートさを持ち得なかったトキ夫が、<よそでわるい病気にかかり不全になった>というまぁまぁな言い訳で別れを持ち出したのは、それから一ヶ月後のことである。サイゼリヤの店内で、若いカップルがそうするように私たちは横並びに座っていた。片方は躰の重心を預け、片方はそれを拒絶するようにアタマの力を頑なに浮かせていた。小エビのサラダが来ても、お互いの眼すら見ず、子供用のメニューの間違い探しを眺めて、あったとか、あってないとか、ふだんは大きな事柄を動かす三十七歳の人間の腕をこうしてたった一人の娘が無理やり独占せしめても、付き合ってくれるところが好きだった。なにかに真剣になると奥歯をかみしめる癖がある。細身。少し乾燥肌。コンビニは使わない。ただ喋っているとかそんな時間でも撫でてくれるんだ。私は、〈これからも野菜はちゃんと取るんだよ〉と言って、フォークにサラダと小エビを集めてトキ夫のほっぺたにつき刺しかかると、間違い探しから顔をずらさぬまま、動物の反射で彼は草食をついばんだ。
〈正解があったって、どうせ気づかないもの〉私が呟いた。
〈そんなものはないよ〉トキ夫が少年の声でぶっきらぼうに言う。
 小エビのサラダがみんな、なくなるころ、子供が間違いをすべて見つけるまえに、トキ夫が別れを切り出した。

 これまで、おゆうちゃん、おゆうちゃんと随分いれあげてもらい、映画やら色々ごちそうしてもらったかわりに、こちらもひっきりなしに胸のときめく時間を与えてやった。妙に思いつめた顔のまま最後に連れてこられた場所はサイゼリヤとなると、安く手切れを渡されたようで、時間が経ってから、ちょっとムカついてきた。一瞬カッとなって、不倫の言質を一つや二つ押さえて、トキ夫の妻とやらに突き付けてやればよかったと思ったが、まんざらでもなくこちらも胸をときめかせ、大人の色気というか、優しい品に、はずかしくなるほどいれあげていたので、痛いというよりはもう生々しいが、そのころの私は生きている実感があった。
 春、夏がぼんやり終わる。その間も地方銀行の受付をしていた私は、同じ職場の上司であるトキ夫に妙なぎこちない態度をとられ続けていた。廊下で鉢合わせるたび、コピー機に身を傾けながらすらりとした下半身をぷりぷりさせお尻をもぞもぞ揺らし、あろうことか求愛のダンスをされていたのだ。ハンカチで手をぬぐいながらトイレから出てきた私をたいそうおびえさせられたけれど、よく考えるとあれは、病気にかかっているからとても痒くて仕方がない、自分は性的に不能だというアピールだったのかもしれない。根っこの神経が生真面目なだけにトキ夫という男は、しかたのないかわいげがあるように見え、また自分は別れてから半年ものあいだ虫歯の治療を放置していたせいもあって、ちょっと感覚が鋭敏なところがあった。トキ夫のことを思うからなおさら歯が痛かったのかもしれないけれど、この男は何か言ったりやったりするたびに別れてからも人の心を奪い離さなかった。トキ夫の黒い眼を見ていると思うのだ。絶えず不安になったのだ。私のような若い女がこの生き物の理性判断を奪うことには何の苦労もいらないだろう。ダマシ、内側からゆるやかに壊すのは、彼の家庭を壊すよりも容易いのではないだろうか。
 一度、不能だと知れれば、その後の生存が楽になるというのは実に賢い方法で、手際の悪さを客に怒られ続けた私は、廊下のいちばん奥にある倉庫で、客へのDMに住所シールを貼るウラの雑用係に回された。この仕事には間違いなどなく、だいたい住所さえきちんと読めるようにしていれば誰からも怒られない。誤配ということがないのだ。こうなってくるとしめたものである。もうどうこうする気力もなかった。自分は評価されている間はがむしゃらにやるが、ダメになったらもう指一本余計に動かしたりしてやらない。いつ仕事を辞めるか、やめたとしても次の働き口はあるのだろうかと途方もないことを考えているうちに、書類を複製しようとトキ夫が小回りを利かせながら腰を振りに来るのを目の当たりにするのだから、なんだ、恥ずかしいことはひとつもないように思えた。
 自分はたいそうご立派で、たいへんご苦労な仕事についているのだから、夜とぎ役のひとつやふたつをそうそう責められるわけもない、たしなみなのだと思っている。なんなくバレないうちは当たり前としているのだが、告発されれば素知らぬ顔をできるほどの度胸はない。代償として不倫相手には腰を振り続けている。トキ夫という男の人生は、新築のローンを返すために馬車馬のように金を妊娠し、不倫相手には伝染と不能を示し続ける、板挟みの種馬のようだった。
 すみやかに去ってゆけばきっと清々してくれるだろう。私はできるだけ辞め時を遅延させ、毎日ゆっくりゆっくりDMを作り続けた。もう報いも慰めもいらない。無為な作業は人をより高度な思考へ乗りあげさせる。その時間すべてを今まで以上に一人の人間へ差し向けた。
 一度、職場にトキ夫の妻がやってきたことがある。流行りの伝染病でトキ夫がしばらく休んだ詫びの代わりにかしこまった菓子折りを持参した。彼女は夫の不倫相手とも知らず、手短な受付嬢へ鈍重な包みを渡した。マスクをつけていたから全容は分からないが、トキ夫の妻は、顔の長い女で目はなにかの信仰があるようなひどい鋭さでたぎっていた。いちおうどこかのお嬢様らしく、手にはレースのグローブまで、つけ気取っている。夫より先に完治しているからには、家庭に高速回転でウィルスを撒いたのは彼女のはずであり、本人は自粛期間が終わったようで、ひさしぶりに成城石井やタカシマヤにでもそぞろによって遊びたそうな雰囲気もあった。
 その晩、眠る前に見たリール動画の中で、種馬が顔を隠されて、雌馬と交配させられ叫び声をあげていた。牡馬は栗毛の若くて小さな躰が好みだったが、それでは子供が貧弱で競走馬には育たない。ので、直前まで好みの馬を種馬は凝視させられ、昂ぶりついた瞬間、すぐさま、ずた袋をかぶせられ全く別の躰の大きな牝牛と交配させられるというものだった。
 私はトキ夫の笑ったときにみせる、あの、しわくちゃな金玉のような顔が好きだった。
 
 何に迫られ脅され、家など建てたのか。もうそれ以外の方法はなく、躰を売ることでしか生きていけないように、ライフプランという王様はトキ夫を勤労の奴隷へ引き下げた。不憫としか言いようがない。まるで黄白のために、自分の時間を、ひいては人生を細切れにする娼婦のように毎日、せっせと働いている。ウラに引いてパッと見えることもあるのだ。トキ夫には仕事など向いていない。もっと違うことをしたほうがいい。野原とか、平地とかの、広くてのびのびしたところに放たれ、飛び跳ねている方がトキ夫にとっても幸福だろう。私との関係を終わらせることで、トキ夫はうんと社会的なものになってしまった。後からなってしまえば、私とのレンアイも子供のいない彼にとっては自分を性的にも、誰にも見えはしないが十分であると証明する手段だったのかもしれない。妻の躰ではそうならなかっただけで、自分はまだまだやれる、繁殖する能力がある人間なのだと、誰彼問わず主張するために、私の躰を経由させていたのかもしれなかった。

 
   メインディッシュ:エスカルゴのオーブン焼き
 
 妻と新築ローンの待つ街は遠くなっていく。反対側の電車に乗り、手をつないで駅のホームを駆け上がっていった。見知らぬ街のにおいをトキ夫は好きになったはずである。よっぽどの理由がないかぎり、月に二度はこの町に来て、この街のものを食べた。一緒にこの街の、坂の上にあるホテルで寝た。こうして証左を並べてみても、けっきょくトキ夫にとってそれが熱していたものなのかどうかわからない。だが、ネクタイのついた管理職の面を駅のゴミ箱に捨てた彼は、改札から出るときには
もうすでに、にこにこ、ほほえましいほど幼くなった。
 トキ夫には大好きな部屋がある。三〇一号室のベッドサイドのダイヤルをひねり暗闇にすると、天井に貼られた仕掛けが動いて、魚の群れがあまたの電光ともに照らし出された。
<おさかな!>
 トキ夫のこころに光明が灯る。ベッドに横たわったまま、映し出された熱帯魚の知識を連ねていく。横でうんうん、と話を聞く私のこころには、せいぜいこんな絢爛な装飾はバブル期に浮かれて作られた時代の遺物でいずれ忘れられていくだろうという風にしか映らなかったが、彼の口から発せられる、小柄な<おさかな!>という言葉を撫で、吐息のにおいを肺いっぱいにため込むように嗅いでいた。彼は図鑑の意味より過剰のような言い方で、うんと賢くなっていくのである。トキ夫は完全にメタモルフォーゼを遂げてしまったのではない。閏に籠った彼と職場での彼とでは、声を通してつながっていて、小学生博士の<言葉>と彼が朝礼で規則事項を伝達する<言葉>とには、突拍子もないのだが、戦時中のような気迫がある。想像力のたどり着くところ、そうなのだ。うまく言えないのだが、製図を広げた軍司令官某の立ち振る舞いがどちらにも、どこかに潜んでいる。
 身ぐるみ剥がしてやりてぇなぁ。
 私は柄にもなく、倉庫の隅で呟いた。完封されきったDMの住所と宛名に間違いがないか確認するため、もう一度、段ボールの箱を積み下ろした。
 グラウンドを走り切った男を二塁にまで戻すのは、微妙な手続きがいるのだろう。私が平日の昼間からなじみ深い三◯一号室になんの苦労もなく、いわくの上司を呼び寄せたのは、脅し一般に折いって頼み込んだわけでもなく、ただ公平かつ厳格な身体検査をお願いしたためであった。もちろん生真面目が取り柄のトキ夫は、それに応じた。私は軍司令官某でもなく監督某でもない、ただの派遣社員だったが、審判某の権利を持っていたのだった。

 <トキ夫さん、あなたはあなたの好きにすればいいけれど、ことによるとあなたの不貞のせいで私にまでわるい影響が及んでいる可能性があるんですよ。おわかり? では手錠をかけさせていただきますね、たいそうなものじゃありません。これはどこの職場でも目にする、ごく普通の結束バンドでございますから。そう、私の現職場にある、結束バンドでございます。倉庫室から掠め取らせていただきました。ふふっ、この際お許しくださいね。また、どうか終わるまでじっとしておいてくださいね。これは信頼及んでいないからではなく、トキ夫さんの安全のために手脚を拘束たらしめるだけですから。どうかお人形遊びをされているつもりで、天井でもお眺めになってお待ちくださいね。シャワールームの天井ですけれど。
 五月雨から干上がった一匹が浅い呼吸を繰り返しながらうねり、地面に躰を打ち付ける。懐中電灯の陽が天から突き刺すたび、ぬるぬると全身の筋肉を使い切った。わいせつな輝きについ吸い込まれていく。
 白いタイルの上で全裸で打ち捨てられたトキ夫の躰はぬる湯をかけられ翻り、わざわざ触れてみるに及ばないほど清潔になった貧相なものを、負け惜しみのように大きくさせ、まあ、なんて卑猥な、もうお魚さんというよりはぬらぬら地面を這う手足のないカタツムリですね、というと、ほんとうの本性を見せつけてきやがった。つまるところ、貴方は裏も表も規則に従っているだけなんですわ。知っていましたか、カタツムリには男性も女性もありませんのよ。どちらも精を放ち、どちらも妊娠する生き物なの。ねぇ? もし私があなたに不貞を働いていたのだとしたら、トキ夫さん、あなたはわるい病気を妊娠してくださるかしら>
 才能が開花する際はこんなむやみに鐘を打ち鳴らした音と共にやってくるんだわ、と忘我の境地に達していたところ、魂が地上に降下して正気に戻るとともに私は、だんだんボリュームが大きくなる、けたたましすぎる悪魔のラッパに躰をびくんと驚かせた。火災報知器のサイレンである。
 火事だわ!
 防災法に基づき、一部屋に一つ、報知器の設置が義務付けられている。その音がだんだんと近づいてきているということは、煙も延火もしかり近づいてきて大惨事になってきているということなのだ。私はトキ夫をさすった。タイルに寝そべりあられもない姿で白目をむいている彼を起こそうとしたが、全く起きる気配もない。仕方がないから、トキ夫に私のワンピースを被らせ、私はトキ夫のスーツを履いて、男女逆転したまま、部屋を飛びだした。無能になったお人形を抱え、非常階段馬車馬のように駆け下りると、ホテルの前には無勢の野次馬と消防団がいて、一斉に視線が好奇の眼で見られていることはまだしも背後の何人かは手元のコインを受け渡して、中に生存者がいるかかけてやっていた。私は猛烈に腹が立って、ぶかぶかのスーツのまま、かけんじゃねぇ、おい、ふざけんな! かけんじゃねぇよ! 人の命を! トキ夫からは到底出ない声で叫び、子供たちがくすくす笑うのをみて、そうかトキ夫はこういう気持ちなのかと思った。こういう気持ちをおくびにも出さないからあんなに滑稽なそぶりができるんだと思った。背後ではホテルは盛大に燃えていた。奇蹟の生還を果たした私たちは、銀色の防災毛布にくるまれ、警察の事情徴収をうけた。結束バンドで結ばれ、手も足も失った不能のトキ夫の代わりに、私がそつなく応対すると許してくれるらしく、そのまま家に返された。私の家はこのホテルからほど近いが、この男をあげたくはない。もうどこでもよかった。いれ違った洋服を着替えることができれば、もうどこでもよかった。私がトキ夫で、トキ夫が私でなければ、そうして商店街のロータリーにある、とにかく落ち着くファミリーレストランに飛び込んだのである。
 欧州大陸からイタリヤという国は突起して海面に全身を晒しているのにもかかわらず、その似非イタリヤ料理店には魚介料理はこれといっていいほどなかった。若いカップルのように横並びで座り、寄り掛かってくる男を介護しながら、私はメニュー表の小エビのサラダを注文した。すると脱力しきったトキ夫はかろうじて残されていた力で、<おさかな!>と姿かたちの似ているエスカルゴのオーブン焼きを指さした。
 料理が来てから、ぐつぐつ煮えたぎったオイルの地獄の中で、玉ねぎのペーストと共に真っ黒になったエスカルゴをトキ夫はどんなに真剣にみていただろうか。
 それから涙を流した。
 それは違うんじゃないかと思った。泣きたいのはこちらである。腹の立った私は、いつになく大胆にスプーンで熱すぎるエスカルゴを掬って、彼のぼんやり開いた口に差し入れた。トキ夫はにっちもさっちもいかない口内の痛みに、躰を睾丸中心に守るように丸めこんで、店内に響き渡る声で悶絶した。


   デザート:ティラミス クラシコ

 あれから二年数か月。
 待ち合わせ場所は商店街のロータリーにあった。一階はマツモトキヨシ、三階は個別指導塾のビルである。およそ郊外に住む日本人の生活を煮詰めたようなビルの二階にそのイタリアン料理店はあった。金曜の夜でにぎわっている明るい店内で地中海風の音楽のなか、トキ夫の姿を探した。ここに来るとどういうわけか落ち着いた。店内の壁には知らないイタリヤの絵画が飾ってある。こんなものが無くても食事はできるはずだ。無駄極まりない。私たちがこの場所に引き寄せられるのは、今は無き三〇一号室に似ているからなのだ。
 一重の眼は左右に行ったり来たりしている。口元には一日の労働の終わりに薄くひげが出ており、ドリンクバーで汲んできたと思しきカプチーノを啜ると、泡を紙ナプキンで上品にぬぐった。彼は間違い探しを解こうと、怪訝な顔で子供用のメニューに小顔を隠している。同年代の男性に比べて比較的幼い顔立ちのようにも見えた。椅子のすぐそばには、仕事用の重そうなアタッシュケースが似つかわしくなく寄り添っている。彼は高校を卒業した後、親戚のつてで地方銀行で入った。根が苦労人であるだけに身なりが固い。黒ばかり着ていた彼に、ブティックで勧めたグレーのセットアップは太もものあたりだけ少しだけサイズアウトしていた。ほとんど窃視のような形で様相を取るのは、同じ銀行に勤めていたころの事務作業をしながらそっと見惚れるような、関係が始まる前からの私の癖だった。私が席に着くと、彼は時計を外し、リラックスした表情でテーブルに並べた。腕の筋肉が見える。そのとき、今まで覚えたことのない、淡い、地味な歓楽が私の中で漲った。ひさしぶりの再会がメビウスの輪っかの如く、緊張を割愛したまま、出会いの始まりにつながった。ひどく苦しくなった。こころのなかに質問がつぎつぎ浮かぶ。こどもの、ひどくおしゃべりになりそうな気配がして思わず、口をつと結んだ。下げた顔を再び上げると、そこにいたのは単なる落ち着いたおじさんだった。
 彼は行為中に眼鏡をはずさなかった。あれは自分の上に股がる名残惜しい女をまじまじ見ていたのではない。彼は私自身を見ることはなかった。私を通して自分と他人の関係性を見ていた。女の背後にある地図をいつも見上げていたのだった。私は自然と涙を流していた。トキ夫も背中で泣いていた。
 駅前で別れたのち、私は元の道を引き返し、またサイゼリヤにたどり着いていた。扉を開けると、同じ店員が挨拶をした。この数時間の間で乱れた髪や落ちた化粧に詮索の入れぬ、伏し目がちの黒子は、人の欲でむせ返りそうなローマ風の店内で客を適当な席へ勧めた。ベルを鳴らし、おいしそうな写真を指名すると、黒子はしばらくも立たないうちに実物をテーブルに寄こした。ティラミス クラシコは皿の上で倒れて皿に寄り掛かっている。厨房で大ぶりなパットから無造作にとり出されたようだ。崩れたそれを写真と違うじゃないかと文句をつけるには、あまりにも安価だった。もうお腹など空いていない。何も食べたくはなかった。座ったからには、生まれたからには何か注文しなくてはならない。いってらっしゃい、いってきます。日々、繰り返し。生きたからには、おいしい思いをしたい。私はおいしい思いに能う力を持っているのだから。
 スプーンで掬うと、申し分ないカカオパウダーの香りが鼻に通り抜けていく。一口食べ、二口食べた。およそこの世に遍在しているティラミスのうち質素な部類に入るが、几帳面に重ねられたマスカルポーネとコーヒーに浸されたフィンガービスケットが混ざりあうごとに味わいを変え、苦みが甘味に凌駕されてゆく。見た目のハズレに驚いてしまったが中身が同じとならば、誤配ということがない。トキ夫もこうして私以外の女の股をむさぼっているのだろうか。
 トキ夫と真新しい家で暮らしている妻は同様の悩みに襲われたことはきっとない。トキ夫を使い、利益を得て、管理しているうちは、彼の理性判断をそぎ落す支配者である。トキ夫は種馬のように働く。手足をもぎ取られた奴隷のように。奴隷の中で幸福を見出した。きっと昔以上に私はトキ夫を思うことができない。
 ティラミス クラシコの平地を崩しながら、俯瞰したのは焼け野原となったあの一帯だった。鉄筋の残骸から建物の骨格が見える。ホテルの敷地は思ったより小さかった。近隣にはコンビニの平屋やデリバリーの寿司屋がある。翼がついたような、あらぬ想像上のやり方で、あの場所と関係したのは初めてだった。やがてだんだん視線は上昇してゆく。国道沿いの坂が映し出され、商店街が見え、駅舎の輪郭が遠のき、ついには標高にすれば何ウン千メートルのところまで来ていた。暗闇に星座を打ったような夜の街が光芒と輝いている。
 だがもうそこにはトキ夫はいない。その場にはもう、ゴルフバッグや釣り具、筋トレ機器などがうず高く積み重なっているだけなのである。

<了>



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