燕気分houtoubooks8月18日読了時間: 5分 家出の末、上京してきた明子にある仕事はえり好みできるほどなく、酒と色の香りにばかり囲まれるように働き始めるにつれ、次第に男への好奇心が心の奥底からせり出してきた。それは明子の静かな生活に転調を来した。以前は、仕事上がりの足で銭湯にむかい、短い黒髪に正味三十グラムのコンディショナーにたっぷり使って、さっぱり清潔になってから、本を読んで眠る、ずいぶん夜遅くまでの読書を普段のお楽しみとしていた明子だったが、最近は店で知り合っただれかを家に招いて、相手との未知な関係性の余白を書き込み続けるのであった。 誰かとはむろん、男のことである……。 明け方に気持ちよく気を失って、昼過ぎに言葉の氾濫するベッドで目を覚ました明子の眉をしかめさせるのは、寝不足気味のけだるさと、カーテンもかかっていない窓ガラスから突き刺す紫外線にやられ、顔に薄茶色の斑点を設けたりしないだろうかという憂慮であった。おそらく両方のいらつきのあいだをふりこのように行ったり来たりしているうちに、いつも完全に目を覚ましてしまう。 すでに客人のいなくなった部屋を見渡せば、缶ビールやつまみが散らばり、机には、いくらか申し訳ない程度の金銭が置いてあった。畳にはメイド服が乱雑に脱ぎ捨てられていた。これ男の嗜好によって持ち込まれたものである。一晩の盲愛をほしいままにした痕跡が、たった一人残された明子の眼にはさびしく映った。自分は若雌ゆえ価値がある。シミやシワだらけのよれた姿になれば、いつか自分も衣のように脱ぎ捨てられてしまうだろう。明子は白壁の覆う部屋でぽつり、思った。それは同時に自身を長年塞いできた錠前があっさり外れた証であった。 こどもの明子がスカートやブラウスを避けたのは、最初の内は母の潔癖を機嫌づけるためであった。次第にやわらかい服装に身を包むと蕁麻疹が出るようにむず痒く、いてもたってもいられなくなった。教育は成功した。父がいなくなってから、母が娘に言い聞かせた男を批判する言葉は、明子の胸に杭の如くめり込んでいた。「図書館からこどもの明子が恋愛小説を借りてくると、『色気好きやがって』と罵られた」最初の夜、明子は男にためらいがちにそう明かした。「本当に読みたい本は母が仕事から帰ってくるまでの夕方にしか読めなかった。だから放課後だけが私の時間だった。畳のいぐさに寝そべり、重い海外小説をかかげてふと窓へ視線を逸らせば、白の混じった夕焼雲に夕日の金糸が沈んでいる。 どこからともなくやってきた燕がしばらく部屋の庇に留まっていた。小鳥はエンペラーの風体である。黒のびろうどの毛並みから重苦しさが抜けていくのは、ちこちこと動き光沢を見せるから。幾つもの、レースを重ねたような、ふっくらとした襟元を安らかに身につけ、燕の目は半分閉じられ、今にも眠ってしまいそうな様子だった。こどもは再び文章に顔を戻す。読書のなかでは、女が桟橋で男を夕焼けのなか見送っていた。女はもう一度、男に会えると思っている。男は後生一度も女には会えないことを知っている。本を読み終えかけたころ、ばざりと音がして顔を上げると、窓辺の燕はどこかへ旅立ってしまった後だった。 子どもの頃の話を昨晩を連れあった男に明かした。どういうわけか明子はその話をしたくてたまらなくなったのである。男は話の途中で明らかに飽きた顔をしていた。話し終えるのを待っていた男は女に「子どもの頃からこういうことに興味あったの?」と訊いた。明子は抱かれながら、この男にも全幅の信頼を寄せることはできないだろうと思った。 ようやく昼のベッドから起き上がると、明子は男の残した金を乱暴に掴み取って財布にしまった。つづいて、シワだらけのメイド服を拾い上げたとき、光の加減で黒い生地の光沢が軽やかに増したり減ったりして色が刹那に移っていることに気づいた。明子の心にふと子どもの頃の空気がはいってきた。なにげなく躰にメイド服とエプロンをあわせ鏡を覗くと、紳士さながらの恭しい襟元と白の可憐なフリルの両端が混ざり合い、落ち着くともそぞろとも取れない不思議な気持ちになった。 いっそメイド服に自分の手足を通してみる。媚態でもなく自分のために。どだい可愛らしい感性は避けてきたから、太腿にまとわりつくものがないと女装でもしているようである。明子は鏡に女装した自分の姿が映っているのが恥ずかしくなって、目を逸らしながら、その場でぐるりと一回転してみせた。黒色のロングワンピースは瞬く間に膨れ上がり、裾のレースが明子の周りに白い輪を描いた。明子は急に楽しくなった。ふわり、ふわり、魂が浮かび上がるような心地になった。明子の中にある、女と男の余白が人知れず近づき、一つの人になるような気がした。 むかし、うつくしい燕を知っていた。あの燕は一年おきに明子の元へ訪れた。どこにもゆけない明子に代わって、春の景色をまた一年後、運んでくる。時期が終わると、黒と白の躰は西日に向かって、はるか遠くの世界へ飛んでいった。やがて明子の眼にはまぶしく、なにも映らなくなった。 男というものの影だけ眺めていたようだ。女というものの影をひっつかまえて、それが本当の女だと思っていたようだ。母親が今どこで何をしているか知らん。明子は東京に来てから過去のことを忘れた。「それで男、女というのは誰のことなんでしょうね」 暗い部屋でたった一人、声に出して訊いた。「さあさっぱりわからない」 明子はそっと微笑んだ。
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