必要の仕事 2025/03/13houtoubooks7月9日読了時間: 5分更新日:5 日前 いつも自分が職場へゆくのを普段としている電車は、昨日にあたるその日、自分が乗車するまでの行きしな人身事故に巻き込まれたので、予定通りに来なかった。自分が遅延証明をもって飲食店の洗い場へ出勤すると、表にいたおかみさんが裏へひょっと顔を出して他人を巻き込んで死ぬのは迷惑極まりないと、さっぱり、カラッとした顔で死体を斬り放った。まあ春ですから、自分は曖昧な返事をした。今日になっておかみの凶器を思い出すと職場へ向かう足が止まった。 店長に連絡をいれて、この時間に歩いたことのないはじめての新宿をゆく。さんざん巡りIKEAのフードコートにたどり着く。そういえば仕事で必要な買うものがあった。まあ小休憩とメニュー表を眺める。アイスクリーム50円。ホットドック100円。ここでのサービス価格は貧乏人にとったらほとんど福祉だ。おまけに今日は休んでしまったから来月は厳しい。しんどい時は休んでいいと謳われても、働かない分、給料から天引きされる。生活は続く。だか、いつまでも続くのみで終わりがない。紙コップをもらい、ドリンクバーのコーヒーをもらう。立ちテーブルにつくと、隣にやってきたきたならしい老婆に話しかけられた。彼女はどうやらこの福祉施設の常連らしかった。「ここのシャンパンジュースおいしいわよねぇ」「おん」「なにがはいっているのかしらねぇ」「おん」 若者の、不詳な返事に老婆はだんだん弱っていった。親に食事の与えてもらえない飢えた子供のような苦悩の表情を浮かべるとドリンクバーの前でしゃがみこんだ。つられて下を向くと、自分のベージュのコートがみえた。これは誰からも褒められる一品である。祖母のクローゼットで、虫食いの受難に耐えながら、再び着られるのを待っていた一品である。いまの小樽たぬきからは想像つかないほどのくびれを有していた祖母がよく着ていた一品である。私のくびれもおばあちゃん譲りの一品で、そのコートを着ればまるで生まれた頃から身につけているように似合った。 「大丈夫ですか」と若者に心配されない老婆はしゃがみ込んだまま、相手の関心を買うという次の状態へいつまでも滑走できない。ただ眺められているのに根気が尽きて、老婆はチラリとこちらを確かめた。みじめな老婆をもう二度と立ち上がれなくなるまで蹴ってみたい。 私はそう思った。友人がエッセイにも日記にもなれない感情を「生牡蠣のたまにまじる苦い部分」と評していたのを思い出した。他人にとって不快なものしか自分は書くことができない。どうも日記ブームには乗れない。告白以外器用に書くことができないのだ。それは恥ずかしい。コートの下は裸である。ぶら下げた自己を白日に晒すことが書くことだと思っているから、技巧派に囲まれるとしゅんと小さくなってしまう。一度脱ぐと、申し訳ないが気分がいい。普段はしまってあるそれがひとたび風景を遮ると甲は乙を追い払い、生活に由来する生緩い心地をみな嘲笑った。どんどん欲望が湧いた。春らしい陽気にかまけて平衡感覚を失い他人に注がれたがっている老婆を嬲り、べらぼうな言い草で釘を刺したい。凶器だらけの社会生活で立ったまんまでいることができず、春、突然のあちらからの迎えに動揺し、精神的な病の現れとして身体を壊したふりをして助けられたいそばからトドメを刺したい。 コートのポケットに片手を突っ込んだ私は軽蔑の眼差しを老婆の幼稚な頭上を注ぎ、中身を飲み切ったコップをドリンクバーのシャンパンジュースに向けた。そして仕事で必要な雑貨の会計を済ませると、その場を出ていった。 現実ではないあちら側からの誘いに付き合う幸福が、「牡蠣のたまに混じる苦い部分」を抱える人間にはある。誰かに助けてほしいわけではない。孤独がいい。これはある種の賭けなのだ。狂い、(つまり私はタナトスへの欲動だと思うのだが)彼岸と自分という一品の魂との、どちらが勝つか。日夜問わず不断にこべりつき続ける、私の死体のイメージに抗うことをやめること。それでいて死なないこと。自分では自分を殺せない。もうわかってしまっているから狂うしかない。第三者から殺してもらうことはできる。そのための羞恥ならいくらでもする。そのために狂う。すなわちそれが圧倒的なタナトスへの欲動をもとに人間の皮をかぶって恥ずかしげもなく生活をすることだった。そうでもしなければ馬力が出ない。生きるために生きていける人がいるように、死ぬことへ駆り立てられて死体になる前を一生やるひともいる。私はこうして生きていることを誇りに思った。賭けに負けて、最後には黄色い点字ブロックのあちら側へ自分の命を放擲してしまってもかまわなかった。 帰り道、駅のプラットフォームに入ってきた行きしなの電車の縮尺が歪んで見え、妙に差し迫っているように感じられた。急にひどく興奮し踏み場のない地平にふいに一歩足が伸びた。 ラッパのどよめき。何百頭分の馬力を発揮する鉄の乗り物が、足取り不安な客相手へ不機嫌な声をあげる。私は警告の黄色いブロックの上から動かない。猛風でコートが捲れる。祖母から譲り受けたベージュのトレンチコートが足元の視界に触れた。開かれたタータンチェック柄の、それもまたダークな茶色の裏地が顕になった。洒落ていると思った。「洒落ている」。その数秒にさっと正気が頭上に降り、怯んだ身体が背後の方へよろめいた。自分は背後へよろめいてしまった。 最寄駅につき、とろいエスカレーターを降る。終わりのない生活のように長かった。隔壁に設置された暇つぶし用の一面鏡を覗くと、ベージュのコートを羽織った見知らぬ老婆が写っていた。
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