目に映るものは皆フィクションである。『「アタック・オブ・ザ・キラートマト」を観ながら』久永実木彦に寄せて
- houtoubooks
- 1月15日
- 読了時間: 3分

「アタック・オブ・ザ・キラートマト」という映画を見たことがあるだろうか。この作品はAmazon videoに幾円か課金することで、自宅のソファに腰掛けながら、楽しむことができる。この作品は全体として脈絡のないコラージュを繋ぎ合わせたような映画なのだが、とりわけ私がお気に入りなのは、FIAの捜査官であるディクスンがキラートマトに襲われるがひょんな理由から九死に一生を得るシーンだ。ディクスンは、急いた胸を落ち着かすために何気なく窓の外を見ると、自分の車が車中荒らしにあっていることに気がつく。彼は急いで駐車場へ戻って、物取りを捕まえようとする。ここで重要なのは、恐怖のキラートマトから奇跡的に逃れた幸運は、次なる脅威によってかき消されてしまうということだ。「トマトから逃げられたんだから、車上荒らしくらい、まあいっか」とはならない。生きているから、生きている限り、次なる脅威に人間は目まぐるしい。
そのような様態は「アタック・オブ・ザ・キラートマト」内の人間が必死に生きているから露呈するのである。トマトにしてもディクスンにしても、これが一つのフィクションに過ぎないのだという冷めた態度を持たない。彼らは自分の現実に必死なのだ。車から一つも盗まれないことが何より大切なのだ。だからこそ、そういう人間を見ていると笑いが込み上げてくる。
「アタック・オブ・ザ・キラートマト」を観ながら』の主人公もその一人である。必死に生きたゆえとある事情で拳に傷をこさえた彼は、映画館〈シネマ一文〉に入り「アタック・オブ・ザ・キラートマト」に出会う。彼は他の観客から、「これはB級映画じゃなくて、Z級の映画だから」と教えられ、鑑賞を楽しむが、途中に大きな物音と地震がして、外で何があったと勘付く。街はなんとなぞのミサイル(?)によって、人々はゾンビ化して、その中に二人の子供が取り残されていることを知る。「アタック・オブ・ザ・キラートマト」のファンである観客たちは、子供を助けるかどうか究極の選択を迫られる。救助案を否定する星乃さんのセリフにこんな言葉がある。
「それをいうなら救助がじきにくる可能性だって考えられるわ。早まって行動して、犠牲者を出してしまったところで自衛隊が到着したら『ミスト」の最後みたいになる」
彼女の胸には、これまでのフィクションで得てきた判断がある。フィクションは彼らの現実の役に立たない。「どんなに馬鹿馬鹿しく思える話でも、実際に起こってしまえば誰も笑わなくなる」ように、フィクションに出てくるゾンビ通りの生態を、彼らの現実に発生したゾンビがしているとは限らないのだ。ただ両者状況に共通するのは、どちらも人間たちが究極の選択に必死であるという点だ。必死であるがゆえ、藁でも掴む気持ちで同じ究極の選択がなされるフィクションに縋る。そのとき、フィクションは虚構ではなく、理性になる。
私たちは自分が生きている現実を現実だと信じて疑わない。人生は最後まで俯瞰して見渡すことができないからだ。もしかしたら、私たちの現実こそフィクションかもしれない。でなければこんな苦悩は馬鹿馬鹿しい。同じ不安を抱えているのは、フィクションの登場人物も同じだ。『「アタック・オブ・ザ・キラートマト」を観ながら』の観客たちは結果的に子供たちを助けにいく。フィクションの理性判断を受けながら、一か八かの勇敢な行動にでる。
映画や音楽や小説は現実を変えてはくれない。だが、それらを通った後では、私たちの世界はちょっと元の位置からズレている。故に、以前とは違う思わぬ判断ができるのだ。
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